「遅かったんですね」

 ファルさんは、まるで怒っていないのがわかる、柔らかな笑顔を浮かべながらそう言
った。

「すみません、遅くなりました」

 リセルシアは、少し息を切らせてそう報告する。そこに怯えはなく、あるのは、恋を
する少女のような限りない憧憬だった。

「偶然人とそこで会って、ちょっとだけ話をしてたんです」
「それって、綺麗な女性?」

 からかうような口調だったけど、そんなやりとりは最近ではよくあることだったから、
軽く受け流す。

「まあ、そうですね。気になりますか?」
「さっき校舎に、見かけない人が入っていくのが見えたから。他意はありませんよ」
「それで? お食事のお誘いを受けてこうして参上したわけですが……今日はどこで?」
「私の部屋、でどうかしら?」
「光栄ですね。でも、条件があるんでしょう?」
「なんでもお見通しなんですね。でも、これは条件ではなくて、ただのお願いだから」
「同じことですよ。さあ、なんなりとご命令ください」
「コンサートホールの鍵を、一時間ほど」
「そういえば、コンサートが近いんでしたっけ」
「ええ、来週の日曜日です」
「ま、ファルさんの料理の対価としては、安い方でしょうね」

 守衛室で鍵を借りるのは、本来なら大仕事になる確立が高い。講師のサインの入った
簡単な書類を提出する必要があるからだったが……。ファルさんの名前と、チェザリー
ニの名前が今は後ろ盾についている今なら、それは驚くほど簡単な仕事だった。
 ホールに向かうファルさんとリセルシアに遅れないように、守衛室へと急いだ。

 二人が練習のための用意をしているのを眺めていると、ファルさんが尋ねた。

「もちろん、聴いていきますよね?」
「ええ、ぜひ」

 ホールの中央、前から五列目の席に腰を下ろし、再び二人に視線を戻した。リセルシ
アは少し興奮しているのか、ここからでも頬が赤くなっているのが見て取れる。ファル
さんはそれを優しく見守り、台を組み立てるリセルシアに小声でなにかをしゃべってい
た。それを受けてか、リセルシアは組み立て終わったフォルテールの台をやや中央に移
し、最後に椅子を持ってきて座った。
 よくコンサートで見られる配置よりも、少しフォルテールと歌い手との距離が近い。
練習だから、お互いの音がよく聞こえたほうがいいのだろう。

「Aの音を」
「はい」

 ファルさんの指示で、リセルシアがフォルテールの鍵盤に手をかけ、ラの音階を弾いた。
 この広いホールに澄み渡るような、美しい音色だった。ピアノとは違い、その音は途
切れることなくいつまでも続く。それに合わせるようにファルさんは軽く発声し、二つ
の異なる音色が、静かに混ざっていった。

 ――やがて、完全な静寂が辺りを支配し、二人は向き合う。次の瞬間、音楽という名
の、人と音との完全な調和がこの狭い空間を支配した。
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